私の戦争体験『今でもたき火を見ると、東京大空襲のことを思い出して、いやです』

1945年3月9日未明、東京の下町一帯が焼夷弾爆撃により焼け野原になりました。この時私はもうすぐ3年生になるときで、明日集団疎開に行く荷物を送るという矢先、全部焼かれてしまいました。私には2歳年上の姉が居り、山形の天童温泉に集団疎開していました。母は父兄代表で面会に行っていて、留守でした。

9日未明、いきなり空襲警報が鳴り、父からお寺の防空壕に行くように言われ、一人で防空壕に行きました。人が出たり入ったりしていましたが、近くまで焼けて来て、みんな出て行ってしまい、心細くなって、一旦家に戻りました。

父は少しでも荷物を守ろうと、2階からお寺の池に荷物を放り込んでいました。私は池のところにいましたが、火の粉が雨のように降ってきて、「アツイヨー、アツイヨー」と泣いていました。そこへ友だちのお父さんが来て、「そこは危ないから」と言って、納骨堂の階段のところに連れて行ってくれました。おじさんは、上からトタン板をかぶせてくれ、その上から水を汲んできてはかけてくれました。それでも、「アツイヨー、アツイヨー」と言っていた記憶があります。

それからどのくらい時間が過ぎたのでしょう。外が明るくなって、あたりを見回すと、一面焼け野原です。まだくすぶっていて、3月はじめというのに、暖かかったです。

私は急いで我が家に向かいましたが、どこが我が家かわかりません。見ると、焼け残った金庫の前で、父が一人で座っていました。私を探してあちこち歩き回ったそうです。泳ぎの達者な父は川を泳いで助かりましたが、煙と火の粉で目をやられて、しばらく目が見えませんでした。

私たち家族は親戚もみな下町なので焼けてしまい、行くところがなくてまた防空壕に戻り、何日か過ごしました。亀戸はゼロメートル地帯で水が出るので、スノコが敷いてありました。家族3人一枚のかけ布団にくるまって休みましたが、とても寒かっかです。

翌々日から死体の片づけが始まり、トタンを紐で引いて、その上に黒焦げになった死体を乗せ、一ヵ所に集めて荼毘に付しました。あたりには男女の区別もわからない死体がごろごろしていました。みんな同じように両手をあげて肘を曲げ、両足を広げて膝を曲げていました。

それからしばらくして、私は山形に集団疎開しました。東京を離れるとき、私をかわいがってくれた近所のおばさんと橋の上でばったり会いました。「お互いに生きていたらまた会いましょう」と言って別れました。すごく悲しかったのを覚えています。いまだに忘れられないのは、死んだ母親の背中で、生まれたばかりの赤ちゃんが、「オギャーオギャー」と泣いていた光景です。

戦争って本当に残酷ですね。二度とこのような戦争が起こらないようにしたいです。

本多一丁目 斎藤 梢

(にいざ民報 2022年7月31日 No.1955)