戦後77年・私の戦争体験『けなげな軍国少女時代』

太平洋戦争が始まったとき私は9歳、小学校3年生でした。4年生になると、出征兵士のいる家の農作業の勤労奉仕です。畑の草取り、麦刈り、稲刈り、子どもにはきつい仕事です。三重県の鈴鹿は、海あり、山ありの農村です。山を切り崩して飛行場が、海側には海軍航空隊、山側には陸軍歩兵隊が駐屯し特攻隊の練習機が頭上を飛びました。

戦争が激しくなり、学校の授業はなくなり、数学の時間はモールス信号、国語は、戦地の兵隊さんに慰問文、音楽は軍歌ばかり、体育は手旗信号などでした。私は手旗信号の県大会で優勝して、得意になっていました。

昭和19年、毎日のように同級生のお父さんの戦死の公報が来て、村葬式をしました。骨箱の中は石ころ一つ、死んだ証拠は何一つない葬式でした。夫が戦死をしても、天皇陛下にささげた命、妻は泣くことも許されません。

作文の時間に、「私の父は年が多いので、戦争に行かないので、貧乏だけど私は幸せです」と書いたのが、悪かった。

「非国民」と言われ、水を入れたバケツを持たされ、奉安殿(天皇の写真が入っているところ)の前に半日立たされました。腕がしびれ、倒れそうになりました。今なら「体罰」に当たることなのに、その時は、父が、「うちの娘がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と、学校に謝りに行きました。そんな時代でした。

洗脳され、軍国少女の私は、懸命に戦争に参加(協力)していました。

戦争が終わったとき私は13歳でした。我が家は誰も戦争に行っていなかったから、肩身が狭い思いをしていました。戦争が終わったときに感じたことは、「肩身の狭い思いをしなくてよくなり、ほっとした」ということでした。

野火止7丁目 酒井美恵子

平和

(にいざ民報 2022年8月7日 No.1956)