米軍大和田通信基地 東京ドーム17個分「金網のない基地」

基地の前でガイドをする笠原市議
基地の前でガイドをする笠原市議

米軍大和田通信基地が新座市に在ることをご存知でしょうか。8月6日、歴史教育者協議会の主催で、「米軍大和田通信基地・所沢通信基地・自衛隊入間基地などの現地見学会」が行われました。私(笠原進)は現地ガイドを頼まれ、10年ぶりに皆さんを案内しました。これを機に、2回の連載でにいざ民報読者の皆さんにも、米軍大和田通信基地を案内します。

現在の米軍大和田通信基地は、面積が119万6139平米で東京ドーム17個分の広さです。約8割が新座市、約2割が清瀬市です。米空軍374空輸航空団第374通信中隊が管理・運用する受信基地です。所沢が送信基地で、本局は横田基地にあります。

この基地の特徴は、①「金網のない基地」です。金網に囲われている土地は基地の一部のみで大半は住民の住む市街地のまま、米軍基地提供地となっています。基地の約6割は民有地です。日本政府が土地所有者と賃貸借契約を結び米軍に提供しています。賃料は1反(300坪)で年間約100万円です,しかも、畑の耕作も許されています。年間数百万円も賃料を受け取る土地所有者もいます。ただし、基地内は電波障害制限区域となるため、家の増築も許可がないとできません。西堀小はかつて基地内にありましたが、2階建への増築を米軍が認めなかったため、基地の外に移転しました。朝霞基地や所沢通信基地、入間基地など金網に囲まれた部分が基地というのが一般的ですが、米軍大和田通信基地は「金網のない基地」ということが大きな特徴です。

②基地の中に市立の総合運動公園があることも、他の基地には無いことです。1981年に新日本婦人の会が防衛庁長官に「基地周辺を公園やスポーツ施設に」という要望書を提出しました。同年12月議会で、佐藤一郎議員(共産党)が「国有地の整備と公園を求める」一般質問をしました。市長は「困難だが、最善の努力をする」と答弁しました。1982年の4月には、「米軍大和田通信基地を市民の手に新座連絡会議」(事務局長・笠原進)が結成され、市民運動が活発化します。4月25日には「平和のための埼玉行動」が行われ、3000人が基地返還などを求めて大和田基地を包囲しました。1983年4月の市長選挙で市瀬陽三候補(革新)は、基地撤去と跡地に公園の整備を主要な公約とし、約4割の支持を得ました。

こうした状況の中で、新座市は1982年6月に「大和田通信所周辺の国有地の使用について」大蔵省関東財務局に初めて要望書を提出したのです。その後の市長選挙、市議選の中でも日本共産党は「基地撤去、跡地に総合運動公園建設を」と訴え続けました。1986年に米軍から条件付き承認の回答があり、その後総合運動公園建設準備室が設置され、予算化され1996年10月に陸上競技場が完成し利用されるようになりました。

大和田通信基地を年表にしました。(下に掲載)1941年に帝国海軍大和田通信所として開設され、アジア太平洋地域の無線を傍受する役割を果たしました。12月8日の真珠湾攻撃の成功を伝える「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲二成功セリ)を受信、「ポツダム宣言」も受信しています。当時の門柱(2本)が残っています。

(記・笠原進市議)

東京防衛施設局掲示の地図 市民プレス12号より


大和田通信基地の歴史
1937年(昭和12年)日中戦争開戦時、アジア太平洋地域の無線受信および傍受目的の基地として建設開始。
1941年(昭和16年)太平洋戦争開戦時、帝国海軍大和田通信所開設。
12月8日真珠湾攻撃の成功を伝える電信「トラ・トラ・トラ」「ワレ奇襲二成功セリ」受信。また「ポツダム宣言」を受信。
1945年(昭和20年)広島・長崎原爆投下爆撃機、テニアン島離陸機と確認。(「黙殺された極秘情報 原爆投下」松木秀文・夜久恭裕、NHK出版)
1945年(昭和20年)中央気象台へ移管。 11月、大和田臨時出張所が創設。
1950年(昭和25年)朝鮮戦争の直前、アメリカ陸軍が中央施設を占有し、第71大隊が受信施設として使用開始。気象台は分室扱いとなる。
1960年(昭和35年)米空軍1956通信隊の基地。(90本のポール林立する)
1964年(昭和39年)アメリカ空軍の管理に移行。第1956通信群が使用。ベトナム戦争時には大和田作戦所となり、重要な役割を果たす。
1970年代 アンテナ群が倒され閉鎖状態となる。
1980年(昭和55年)アメリカ軍がアンテナ18基(72本)を撤去。
1981年(昭和56年)6月30日ヘリポートを設置。基地機能が強化される。
1982年(昭和57年)基地調査・撤去の市民運動が活発になる。
4月16日「米軍大和田通信基地を市民の手に新座連絡会議」(準)結成。
4月25日 平和のための埼玉行動 3000人が基地を包囲する行動。
6月3日 新座市が大和田通信所周辺の国有地の使用について要請する。
1986年(昭和61年)3月11日米軍より回答。(条件付き承認)
1987年(昭和62年)米軍が核シェルターの存在を認める。
1989年(平成元年)新型スパイラルアンテナが設置される。
1992年(平成4年)第374空輸航空団第374通信中隊が使用部隊となる。
1996年(平成8年)陸上競技場完成、利用開始。
1998年(平成10年)〜2002年(平成14年)思いやり予算で基地増強工事が進む。5棟の管理棟が1棟に集約される。地下化の工事が進む。
2001年(平成13年)アンテナ鉄塔が撤去される。
2006年(平成18年)横田基地のホームページから核通信網の記述が削除される。

(にいざ民報 2019年8月11日 18日合併号 No.1823)