私の戦争体験『今の政治は戦前の空気と同じような気配を感じる』
私は1928年3月21日に、甲府盆地の南に位置する寒村で、16人兄弟の8男として生まれ育ちました。
父は明治11年生まれで、日本郵船の船員をしていました。しかし、伯父が日露戦争の203高地の戦いで戦死をしてしまったので、実家の後を継ぐこととなりました。
当時の日本は、他国に軍隊を進めていった。そんな時代だったので、当時の私も軍国少年でした。二人の兄は海軍に入隊をし、私は実家が貧しく、5年間ただで学べるということで、民間のパイロットを養成する学校に入りました。
5年生まで米子におりましたが、東京大空襲の後に国の命令で松戸に移ることになりました。前夜の空襲で常磐線が動かず、上野駅から松戸駅まで線路を歩いていきました。途中、鉄橋で川を渡りましたが、死体がたくさん流されていました。
松戸では、横浜の空襲が昼間あり、多数のB29の襲来で黒煙が東京湾を超えて空を覆い、夕方のように暗くなりました。
その頃は、硫黄島が陥落し、そこを基地にしてノースアメリカンP51が連日襲来し、同級生が10mほど離れたところで銃弾に当たり死亡しました。
当時の私は、血気盛んでしたので、同級生たちと「特攻に行こう」と、血判を交わしましたが、終戦を迎えました。
上の兄は戦死してしまいましたが、下の兄は人間魚雷の訓練を受けたそうです。
今、軍国に向かった、そんな嫌な空気になってきたと感じます。伯父と兄を戦争で亡くしました。そんな思いを、子や孫にはさせたくない。平和な時代を引き継ぎたいと、強く思います。
畑中1丁目 大竹力
(にいざ民報 2022年7月24日 No.1954)